完全品と疵物
私は過日或る著名な焼物蒐集家の書いた感想文を読んでいたら、その中に
疵物を買う人を罵ってあった。そうして本当の美は完全な品でなければ味わ
えるものではないという議論を立てていた。つまり無疵であるということが、
よい蒐集の重要な条件であるというのである。
一寸考えると、疵物と無疵なものとを比べると、完全なものの方がよい状
態にあるのだから、この議論は全く常識的にも適うように思われる。骨董屋
も無疵物には高い値をつける。だから疵があるから安くしろという掛合も、
当然なこととなってくる。だが常識によるこういう標準で美の問題が易々と
片付くものであろうか。問題はそう簡単ではない。この常識が意味を失う時
がしばしば現れてくるからである。結局完全論者のそういう議論は、全く不
完全なのだということが、ぢきに分かってくるだろう。なぜだろうか。
だいぶ以前のことであるが、私は朝鮮で高麗焼を集めている人を訪ねたこ
とがある。その人は随分早くから集めていたので、無疵なものを選ぶ機会が
多く、従ってそういう品をのみ有っていた。その人も完全論者で、疵物は決
して買わないと自慢していた。そうして疵物を二義的な品だとし、そういう
ものを買う人を軽蔑していた。
しかしその人の蒐集を見ると、どういうものか非常に窮屈な感じを受け、
又全体として冷たくさえあった。高麗焼にはもっとよいものが沢山ある筈だ
がと思わざるを得なかった。ものが高麗焼でしかも無疵ときているから悪い
筈はないわけだが、全体として蒐集に力がなく、大変厭き足りないものを感
じた。なぜだろうかと考えた時、結局その完全論に引っかかっているため、
のびのびした蒐集が出来ないのだと分かった。結局その人は完全さというこ
との方を愛していて、ものの美しさを愛しているのではない。少なくともも
のの美しさより、それが完全な品であるということの方を、もっと尊んでい
るのである。だから美しいものを沢山見逃して了っている。不思議な矛盾で
はないか。
私の考えでは、美しい品なら、無疵でも疵物でも別にかまわないという自
由さが欲しい。否、この自由さがないと、ものの美しさにぢかに触れること
が出来ない。無疵な品でなくば、本当の美はないというような考えは、概念
が先立つので、直観的な立場ではない。そういう考えで見る限りは、却って
美しさ見ることは出来ない。否、見えなくなって了う。美しいものは疵物で
も美しく、無疵でも美しい。この世には完全で醜いものがあり、又余り完全
なるがために、却って美しさを弱めているものすらある。これと共に疵物で
も美しいものがあり、却って多少の不完全さがあるために、美しさが加わっ
ている場合すらある。
私はよく想い起こすが、若し天下に有名なミロのヴィナスが、元のままに
両腕を完全に持っていたら、よもやルーブルの中央に飾られはしなかったで
あろうと。ギリシャ彫刻にはトルソーで素晴らしく美しいのがある。ロダン
は始めから首や腕や足のないトルソーを作ったりした。
日本で不完全さに却って美を認めたのは初期の茶人達の鋭い眼であった。
オオメイブツ
私の見た幾つかの大名物の茶碗は、何れも皆疵物である。だがそれでも少し
も差支えない。不昧公が熱愛したという「喜左衛門井戸」は始めから疵物だ
し、有名な西本願寺の什物「一文字」茶碗は、疵でその銘を得ているくらい
である。例の「筒井筒」は七つに割れて、継いであるが、それが近頃百五十
万円とかで売れた。
嘘か本当か知らぬが、紹鴎と利休との間に面白い話が伝わっている。或日
紹鴎が利休とつれだって外に出た時、たまたま古物商の店の前を通りかかっ
た。ふと見るととても美しい両耳付の壷があるではないか。紹鴎は買いたい
と思ったが、利休も気が付いていたら、きっと同じように欲しく思うに違い
ない。だから翌日一人で買いに来る方がよいと考え、その日はそのままで別
れた。その時紹鴎は若しあの壷の片方の耳がなかったら、更に美しいと思っ
た。所がその翌朝のこと、利休から使いの者が来て、文面には名器を手に入
れたから今朝茶を建てたい、是非御光来希えぬかというのである。紹鴎はは
たと思い当たった。昨日見た例の壷を利休は既に手に入れたに違いない。し
かしあの壷の耳を、利休はどう処置したであろうか。そう考え乍らひそかに
金槌を懐にひそませた。さて、招かれるままに茶室に入って見ると、果たせ
る哉、床にはちゃんとその壷が置いてあり、一輪の花が活けてあった。例の
耳はと見ると既に一つ欠いてあるではないか。紹鴎はその時、知己なる哉と
感心し、共に快い茶を楽しんだ。
これは造り噺かどうかを知らないが、嘘としても興味深い。利休は完全な
品をわざわざ疵物にしてその美を楽しんだ。疵にしてその美を一段と増すよ
うにした。少しうがち過ぎた話ではあるが、例の完全論者より慥かに進んだ
見方があると思える。相当に進んだ眼がなければ、ここまでには達しない。
完全な品でないと気になる人は、常識的な立場以上には出ていないと云える。
不完全という言葉は多少語気が強過ぎるが「茶」は実に不完全への認識だと
も云える。完全なものはそれで終わりが来ていて、余地や含みを残さない。
含みを限りなく内に宿すものこそ美しい。不完全美とはかかる含みを指した
ものだとも云える。疵に美を見るのはそういう場合である。
しかも茶人達のこういう話は用心しないと見方を毒する。美しさには疵が
なければいけないなどという法式を立てたりしてはこまる。実際後代の茶人
達にはこの弊害が多く、わざと疵物を愛したりした。中には、完全な品を強
いてこわして、わざと継ぎさして使ったとさえいう。茶碗には所謂「寄び継
ぎ」をしたものが沢山あって、中には実に心を込め、継ぎ方も巧みなものが
あって、一種の美しさや、時には力まで示しているものがある。だがこれも
度を過ごすと閉口である。例のでこぼこ趣味はここから来ている。茶碗を作
る時、態とゆがめて作ったり疵をつけたりする。それを雅致だという。だが
そういう作為に雅致があるという考え方は、無疵でなければ美しさはないと
いう考えと同様、見方に囚われたところがある。そういう考えは一般的原理
とはならない。
美しければ傷があってもよく、無くってもよいという自由があってこそよ
い。美しさは疵に保障されて存在するものでもなければ、無疵に保護されて
存在しているものでもない。美しさが根本で、疵の有無は表面的のことに過
ぎない。だから或る場合は完全のままによく、或る場合は疵のままによい。
疵に興味を感じたり、又無疵のものでなければ承知の出来ないようになっ
たりしたら、それ等の人々の蒐集は結局どっちもつまらないものに終わって
了うであろう。何れも大道りを歩かず、わき道を歩いて得意になっている感
じを受ける。疵があろうがなかろうが、そういうことにこだわりなく、美し
さにぢかに触れて選び出してくる蒐集が一番光るであろう。完全品だけを集
めてあるような蒐集には、少しもこわい要素がない。美しさが分かっていれ
ば、そんな不自由な見方は持てない筈である。
結局事実は次のような三つの場合があることを吾々に示してくれる。或る
場合は完全である方がよい。これが一つ。或る場合は却って不完全である方
がよい。これが第二。だが或る場合は疵があってもよく無くってもよく、そ
の有無に関係がない。これが第三。真に美しさが迫るようなものは、疵の有
無などを越えて了う。
民芸館は古九谷の素晴らしい大皿を一枚有っている。私の見ている範囲で
は、古九谷中の一傑作であり又一大作である。どんな品を持ってきても、引
け目をとらないほどの古九谷である。所がそれには大きな疵がある。だが不
思議なことに、その形や絵や色の強さと確かさとは、疵などを蹴とばしてい
て、悠々としている。恐らくどんな完全な古九谷を傍に持ってきても平気な
顔をしているであろう。それほどこの大皿は立派である。こういうものを見
ると、例の完全論など弱々しい力だ。同様に茶趣味に囚われた疵の雅致論な
ども、小さなものに思える。疵があっても無くっても平気でいられるような
品物こそ真に立派なのである。民芸館の古九谷の大皿は、一切の議論への直
截簡明な解答だと思える。
(打ち込み人 K.TANT)
【所載:『民芸』 昭和18年10月】
(出典:新装・柳宗悦選集第8巻『物と美』春秋社 初版1972年)
(EOF)
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